空気人形

10月に入った.巷ではiPhoneアプリのセカイカメラが大流行のようで,AppStoreもダウンロード制限をかけてるとかなんとか.私はカメラが内蔵されていないiPod touchユーザーで,使うことができずちょっと悲しい・・・.画像とか見てると,『サマーウォーズ』のOzの世界を連想させる.楽しそう.

今日は1日,映画の日ということで,新宿バルト9で『空気人形』を見てきた.午後9時半からの回を予約していたのだが,5限の講義が終わった後,研究室のリクライニングチェアーで本を読んでいたら,いつの間にかウトウトしてしまって,気付いたら8時45分だった.危ないところだった.私は研究室では大体iMacでクラシックとジャズ中心のBBC Radio 3を流しているのだが,時差の関係で日本の夕方はイギリスの午前中にあたるため,実にゆったりとした音楽が多く,これがまた眠気を誘うのである(特に講義の後は).本当はプログレでも流すといいのかもしれない.
で,『空気人形』だけれど,特に難しいことを考えずに見ていると,しんみり心に染みてきて楽しめる内容だった.空き瓶と人形のアナロジーなんかは,ペ・ドゥナの演じる人形の透明感ともシンクロしてとても美しかったし.その後,帰宅しながら考えてると,肉体を持たないが心を持った人形と,肉体はあるが心を失った人間との対比は典型的な二元論的なアプローチだけど,引用される詩のくだりとか,人形から抜けていく空気が風となり,心を失った人間と絡まってポジティブなイメージにつながる辺りは,やはり心をフィジカルなものの相互反応として描いてるのかな,とか思ったりもする.しかし,ゴミの描写はよく分からない.肉体・物質は燃えるゴミで,心はそうじゃないって矛盾してるしなぁ.空気をフィジカルなものではなく肉体と乖離した心のメタファーとして考えれば,筋は通るけど,それじゃあ結局二元論的な話になってしまう.やはりよく分からない.暇があったら考えてみよう.
追記:こんなこと考えない方がいいのだろう.美しい映画なのだから.

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